DIVING

オープンウォーターへの道

崖っぷち難関突破

BiND_0001.jpgクラブメッドから見たひげのホームグラウンド底地沖。船が集合しているとこがマンタポイント

言うなれば、こっからが本番だったんです。

 さっきの消し忘れたハットリ君がひげの目の前をブラブラと泳ぐ。師匠の後を懸命について行く、ひげだ。言うまでもなく、ひげが落ち着きを取り戻したのは「息を吐ききること」を実行したということの他にやはりこの、スネ夫とハットリ君は大きい。師匠はなにもひまでスネ夫を描いていたわけではもちろん、ない。それは、ひげの緊張を解きほぐすため、リラックスさせるための師匠的手段に他ならない。

 もう一度水底にフィンをつく。そしてゆっくりとひざをつく。ここで、数種のトレーニングをこなすのだ。

「はじめるよ。まずは見ててね。」
師匠が言う。そして始まったのは”レギュレーターリカバリー”水中でなんらかの理由で口からレギュレーターがはずれた場合、それを拾ってもう一度口に含む方法。師匠の見本演技だ。実にソツのないデモンストレーションだ。

「どうぞ」
・・・そうだ。見本演技を見て拍手だけしていても仕方がない。次は私、ひげの番。
ちょっとまって。この口からレギュをはずすの?せっかくおさまっていた浮上願望がまたぞろ出そうだ。

「どうぞ」
師匠の指し示す方向、それが私の進む道なのだからやるしかない。

 プクプクプク。少しずつ息を吐きながら、レギュレーターはゆっくりとひげの口から離れた。右下方へ落ちていく命綱。しかし。落ちきらないうちにそれをサッサとリカバリー。せっかちダイバーひげ。マウスピースをくわえ、ブッと息を勢いよく吐き出し水を出す。これでレギュレーターリカバリーは終了だ。

 もう2度と絶対はなすもんかこの命綱、とばかりにひげはマウスピースを噛みしめていた。そんなことをしてるから、耳の下の筋肉がこわばって、痛くなるのだ。

「次はマスククリア」
ひげは初めてこの底地の海に、トラックでやってきたときのことを思い出していた。そして、そこでの波打ち際の思い出も・・・(つい、さっきだって)そうこうしているうちに、師匠のデモ演が始まる。ありがたいものだから、ちゃんと見とかないとと思わせる、すばらしいデモ。しかし、それも終わればひげの番。この時が一番つらい。それに、他の人は波打ち際なしでこれをやるって、ほんとかい!どっぷりと今は、水の中。覚悟を決めて、マスクに水を入れた。

「もっと」
「え?」
「もっと」

もっと入れろと言う。トホホ・・・慎重にひげは、目の下ギリギリまで水を入れた。上を向いてそれを出す。ブーブーやって、水は出た。クリアだ!師匠が”ダイバーせんせい”にでっかくOKと書いた。そして拍手。音はない。波打ち際で糸が切れたせいか、あのときよりも出来がいい。これはいけるかも、だ。師匠の華麗なるデモ演は続く。見ると今度は、マスクの中全部、上まで満タンに水を入れてのデモ。

「どうぞ」
ひげ、ついさっき、いけるかもと思ったのにそれを見て、もうひるむ。水を入れた。「もっと」と4回くらい言われたが、満タンになるかならないかのうちに、ブーブークリア。もう、テコでも動かないかんじのひげ。しかし、ここまではほんの入り口だったのだ。

 ひげはこの時点でいっぱいいっぱいで、すっかり忘れているのだが、師匠が”ダイバーせんせい”にこう書いたことで、ここにいることを激しく後悔したのだった。

「マスクのーだっちゃくー」

 だっちゃく・・・脱着。
そう、これは波打ち際で鬼の試練かと想いをはせた、マスククリアの最高峰。なんせ水の中でマスク取れたら、さっさと拾って付けないと鼻から水入ったらたいへんだもの。緊急浮上もの。わかっちゃいるが、想像しただけでもやりたくない。しかし、それをやれという。今。

 師匠は昔っから水の中に住んでいるかのように、慣れた手つきで静かに自分のマスクをはずす。師匠の素顔など、いつの昔に見たろうか。歯医者の先生のマスクにかくれた素顔をめったに見れないように、水中でマスク取った人の顔など滅多には拝めまい。水中でもそのグレーの瞳はまっすぐこっちを見ていた。しばらくして、また静かに師匠はマスクをはめた。前髪も横の髪も入らぬよう、完璧に。マスクの中の満タンの水の中で、グレーの瞳が瞬きもせず少しだけ、微笑む。音もたてずにその水は、静かに静かにクリアされた。

100_0099.JPG5月の海ですからところどころにサーモクラインがあったっぽいんです。写んないなぁ〜・・さすがに

「海水ですから・・・」

 ひげの脳裏に浮かぶ言葉。もうすでに師匠はひげが脱着するのを今か今かと待っていた。”ダイバーせんせい”には「自分のペースでね」と書いてある。日頃せっかちなところもあるひげは、だからというわけではないが、このときばかりはカラに閉じこもったカメのようになっていた。

 刻々と時間は過ぎていく。
師匠とひげ。向かい合ったまま動かない。 

 ゴボゴボゴボと排気の音だけがこの静寂をただよう。排気の音は瞬間、泡となり水面へと昇っていく。ああああ〜・・私も泡になりたい。たとえ、水面に昇ってしまえば消える運命であっても。あの空へ向かって、駆け昇っていきたい・・・・シクシク



どのくらい時間がたっただろう。師匠が先に動いた。そして”ダイバーせんせい”をピッと消す。そして再びひげの方にそれを向けた。


「あきらめて、やってください」

 もう、だみだー。もうどこにも逃げられはしないのだー。ひげは観念し、またしばらくの時間を要したが、ついにマスクにその手をかけた。

 ガボガボガボガボボボボーーッ!!!ブーブーブーッ!!!

 マスクをはずしたあとは夢中で、間髪入れずはめたマスクに髪は前以上に乱れ、顔はひきつってはいたものの、終始目をつぶりやたらめったらクリアした。水がぬけてもブーブーやっていたのか「もういい、もういいから」と肩をたたかれて、止められた。

 合格だー。ひげ、最大の難関(強行)突破の瞬間だった。


Log/講習地:底地沖シーベース 深度MAX:10.8m AVG:4.5m 透明度:10m
見たさかな/ミズタマサンゴ、クサビライシ、ケヤリムシ、オトメベラ、シャゴウガイ